[JBJA活動]2014.1.30

ビールについて淡々と勉強する 歴史その1

こんばんは、酒屋好きの池田です。

 

酒屋のことだけ嬉々として書いていたいのですが、なかなかそうもいきません。

何せ不勉強なので、この場を借りて勉強することにしました。皆さんもよろしかったらお付き合いください。

科目はまずは社会科、歴史と地理でいってみます。 テーマはもちろん「ビール」。歴史では「ビールの始まりと新橋」、地理では世界各地のブルワリーがどこにあるのか探すことにします。

 

今日は歴史の第1回、ビール醸造のはじまりまで。

参考書を2冊。

「麦酒伝来 森鴎外とドイツビール」(村上 満著 創元社 2006年)

「ビールと日本人 明治・大正・昭和 ビール普及史」(麒麟麦酒株式会社編 三省堂 1984年)

 ちなみに、いまでもキリンビールは「麒麟麦酒」株式会社です。かっこいい。そして結構後にでてきますが、明治屋は麒麟麦酒の販売所として創業します。今日読んだところなので先に書いちゃいます。

 

・日本(人)のビール醸造のはじまりは川本幸民

下田、横浜、長崎、函館の4港が開かれるのが1859年(安政6年)。ビールは横浜にやってきます。

 18世紀末には、蘭学者の研究を通して国内に「ビール」という言葉は現れているようですが、最初は留学生たちが海外で飲む程度。実際に醸造を試みた日本人は川本幸民(1810~1871)と言われています。ちなみに、「国内で」最初にということになりますと、長崎の出島で1812年(文化9年)頃にヘンドリック・ドゥーフというオランダ人が、醸造したのが最初と言われているようで、2005年にキリンビールが復刻しています。

 川本幸民は蘭学者であり蘭医。茅場町1丁目交差点付近の自宅の庭で醸造したというビールがどんなビールだったかは、まだ不勉強なのですが、「ビール王国」第1号の56・57ページに小西酒造 辻氏のインタビューがあり、小西酒造が再現した幸民のビールについて語ってくれています。幸民はドイツ語の「Schule der  Chemie」のオランダ語訳を「化学新書」という書に翻訳していますが、ここに醸造法が書かれており、幸民はこれを元に自力で醸造を試みます。

 小西酒造は、幸民の「化学新書」及び原文のオランダ語訳をもとに「幸民麦酒」を作りました。現在でも飲むことができます。実は2005年にキリンも幸民のビールを復刻しているようです。(福岡工場にて。試飲のみ、販売はせず)。飲み比べてみたいですね……

幸民の試醸が1853年とのことですから、幸民が43歳のころ、ということになります。なんだかシンパシーを感じます。

 せっかくなので、幸民の家のあたりに行ってきました。彼は茅場町1丁目の交差点近くに住んでいたとのこと。古地図と照らし合わせ歩き回り、おそらくこの辺だろう!と推定したのは、茅場町3番出口を上がったあたり。小諸そばとスターバックスの間に、日本ビール史の記念碑的な場所があるのです。

但し、行っても記念碑的なものは何もありません。せっかくなので、茅場町に用事のある方はどうぞ。

DSCN1530
このビルのあたり、のはずです。

 

 とはいえ、最初の醸造を行った川本幸民は、商業化には直接関わらなかったようです。ビジネスベースの醸造は、皆さん聞いたこともあるでしょう、ノルウェー系アメリカ人、W.コープランド界隈から始まるようです。

 1854年(嘉永7年)、あのペリーが横浜に上陸します。上陸したのは水神の森周辺。現在の横浜開港資料館のあたりです。つまり、今週末ジャパン・ブルワーズ・カップが行われる大桟橋の目の前!っていうかペリー、大桟橋のあたりに船を停めてたのでは!そこでイベント、しびれますね。

 ペリーによって日米和親条約が結ばれ、その後1858年(安政5年)に安政の5か国条約が米、蘭、露、英、仏との間に結ばれ、横浜に海外の商社がやってくるわけです。そこで出てくるのが、バスペールエール。今、当たり前すぎてありがたみを感じていない皆さん、日本における輸入ビールの始まりはバスなんですよ。そしてコープランドによる醸造が…始まります。但し、コープランドが最初かどうかは微妙なところもあるようですが……勉強中です。フレンスブルガーも早いですよ。

次あたりに新橋の話になるでしょうか。

※記事に掲載されている内容は取材当時の最新情報です。情報は取材先の都合で、予告なしに変更される場合がありますのでくれぐれも最新情報をご確認いただきますようお願い申し上げます。

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