【連載ビール小説】タイムスリップビール~黒船来航、ビールで対抗 166~麦酒は黙して育ち、黒船は町を睨む 其ノ陸
ビールという飲み物を通じ、歴史が、そして人の心が動く。これはお酒に魅せられ、お酒の力を信じた人たちのお話。

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小伝馬の牢座敷から引き出された喜兵寿は、2人の男たちに連れられ路地裏へと進んだ。久しぶりに歩いたものだから、足が自分のものではないようだ。一歩踏み出す度に、ぐにゃりとぐにゃりと身体が傾く。
ふりそぼる雨は冷たく、指の先の感覚はない。喜兵寿はちらりと視線を走らせた。周囲に人気はない、強まってきた雨で、音もきっとかき消されるだろう。
(逃げられるだろうか)
早まる心臓を抑えるように小さく息を吐くと、喜兵寿は手と足にそっと力を込めた。何日も食事もろくにとらせてもらえず、縄で繋がれたままだったのだ。以前のように走れる気は全くしなかった。それどころか、気を抜くとすぐにでも意識を失ってしまいそうなほどに疲弊している。
それでも……逃げるとしたら今しかなかった。
喜兵寿は頬の内側を奥歯で思いっきり噛んだ。痛みと血の味で意識が多少はっきりしてくる。
(まだ死ぬわけにはいかない!)
膝を曲げ、かかとを浮かせた。っとその時だった。
「へいへいへい!やったなぁ!喜兵寿、脱獄だーいせーいこーう!」
聞きなれた、おちゃらけた声。驚いて顔を上げると、にんまりと笑った直がいた。
「ここまでくれば大丈夫だろう。籠も用意してある。喋るな、動くぞ」
もう一人の町奉行所役人が笠を上げる。するとそこにいたのは小西だった。
人は驚きすぎると声も出なくなるものなのだろう。喜兵寿は口をあんぐり開けたまま、地面に尻もちをついた。
「あははは、なんて間抜けな顔してんだよ」
直は喜兵寿の手を取ると、強く握りしめた。
「大変だったな。もう大丈夫だ、戻ろう。みんな待ってる」
喜兵寿を乗せた籠が到着すると、蔵の中はお祭り騒ぎとなった。しかしこれはあくまでも「脱獄」。歓声が外に漏れ聞こえてはいけないため、皆最大限に声の音量を下げ、喜兵寿の生還を喜んだ。
「おかえり、おにいちゃん」
真っ赤な目をしたつるが、喜兵寿を強く抱きしめる。その横で夏は崩れ落ちるようにして号泣していた。
「さ、何はともあれ、まずはご飯だよ。あーその前にお風呂かな」
蔵の裏手にある五右衛門風呂には薪がくべられており、喜兵寿は誘導されるまま熱い湯に浸かった。湯に触れた瞬間、皮膚がひりついた。思わず息が詰まる。それでも、身体は勝手に湯を求めて沈んでいく。
これは現実なのだろうか……?ざあざあと降る雨と、もうもうと立ち上る白い湯気。さっきまで自分は牢の中にいたのに、今は風呂の中だ。
実はすでに自分はもう処刑されていて、死後の世界にいるのではないか、そんな想いに駆られていると、お盆に大量の握り飯を乗せた直が現れた。
「喜兵寿ガリガリだから、一刻も早く食わせろってさ。風呂の中で倒れてるんじゃないかって、つると夏がうるさいうるさい」
直はけたけたと笑いながら、喜兵寿の口に握り飯を突っ込んだ。
「食っとけ、食っとけ。どんな状態でも食えるやつが強い」
喜兵寿は黙って握り飯を咀嚼した。しょっぱい、そして甘い。米のほどける感覚に肌が痺れ、噛みしめる度に広がるふくよかな甘さに涙した。
うまかった。信じられないくらいにうまくて、身体全体が全力で「もっとくれ」と叫び出したのがわかった。喜兵寿は両手に握り飯を掴むと、無我夢中でむさぼった。
「もっと早く助けに行けばよかった。ごめん」
直は風呂小屋の隅に座ると、持参してきた徳利を開けた。
「ビールさえできれば、喜兵寿を助けられる。そう思って醸造をやってきたが……まさかこんなにもボロボロになっているなんて思わなかった」
申し訳なさそうに頭をさげる直をみて、喜兵寿は頭を振る。
「……それで、びいるは今どうなっている?」
湯に入り、握り飯を口にしたことで、やっと意識がはっきりとしてきた。喜兵寿は前のめりで直に問いた。びいるは、ずっと一番気にかかっていたこと。牢座敷の中で正気を保っていられたのも、びいるの存在があったからといっても過言ではない。
「ふふふ。まじでいろいろあったんだぜ。喜兵寿の兄ちゃんにも会ったしな!」
「は?どうして源にいが出てくる?」
思わず風呂から立ち上がった喜兵寿を見て、直は嬉しそうに笑った。
「まあいろいろあったわけだけど、ビール造りはうまくいっている。もうそろそろ一次発酵が終わるところだ」
「……そうか」
直の言葉に、喜兵寿は深い安堵の息をついた。溢れてくる涙を隠すよう、風呂の中に潜る。
「詳しい話は風呂から上がってからな!みんな喜兵寿と話したくてうずうずしてる。つるなんて、張り切って料理何品も作ってるぜ」
直は喜兵寿に向かって、乾杯する仕草をした。
「脱獄祝いの酒を飲もう。そんでもって、出来上がったビールでどう村岡をぎゃふんといわせるか考えようぜ」
「……そうだな」
喜兵寿は深く頷くと、湯の中で拳を握った。
※このお話は毎週水曜日21時に更新します!
協力:ORYZAE BREWING
作中で完成する「江戸ビール」、現在発売中です。小説を、物語のエンドロールを飲む、という体験
限定醸造「タイムスリップビール」
※記事に掲載されている内容は取材当時の最新情報です。情報は取材先の都合で、予告なしに変更される場合がありますのでくれぐれも最新情報をご確認いただきますようお願い申し上げます。









