「シティボーイ」がホップ農家になるまで 藤原ヒロユキ代表に聞く、京都・与謝野で始まった新しい暮らし-前編-【JBJAChannel】
このたびの令和8年熊本地震により被災された皆さまに、心よりお見舞い申し上げます。
余震が続くなか、不安な時間を過ごされている皆さまの安全と、一日も早い復旧をお祈りいたします。
ビールに愛された皆さまへ。
日本ビアジャーナリスト協会代表の藤原ヒロユキさんといえば、コラムニスト、イラストレーター、そしてビアジャーナリストとして、長年にわたり日本のビール文化を見つめ、伝えてきた人物です。
国内外のビール事情に精通し、ブルワリーや飲食店、ビールファンとの幅広いネットワークを持つ一方、現在は京都府北部の与謝野町でホップを育てる農家でもあります。
東京・新宿で長く暮らしてきた藤原さんは、なぜ京都府与謝野町へ移住し、自らホップを栽培するようになったのでしょうか。
ホップ圃場での収穫体験を終えた後、藤原さんの自宅を訪ね、移住のきっかけや与謝野町でのホップ栽培、現在の暮らしについて話を聞きました。

目次
30年間、新宿区民だった藤原代表
現在の藤原さんの姿だけを見れば、自然豊かな与謝野町で暮らし、季節の変化を感じながらホップを育てる生活が、すっかり板についています。
しかし、もともとは都会での暮らしを満喫する、いわば生粋の「シティボーイ」でした。
大阪の豊中市に生まれ、若い時期を生まれ育った関西を中心に過ごし、30歳から東京で暮らし始め、その後の30年間を新宿区民として過ごしました。
自宅は、複数の鉄道路線が乗り入れる便利な駅から徒歩7分ほど。仕事にも遊びにもアクセスしやすい、都会ならではの生活だったそうです。
ビールに関する執筆や取材、イベントへの登壇、イラスト制作など、藤原さんの仕事は人や情報が集まる都市部との親和性が高いものです。
ビアジャーナリストとして活動するうえでも、東京は非常に便利な場所だったはずです。
それでも藤原さんは、60歳という節目を迎えたタイミングで、長年暮らした東京を離れる決断をしました。
移住先に選んだのは、若い頃から連れ添ってきた奥様のご実家がある京都府与謝野町でした。
60歳を機に、東京から与謝野町へ

藤原さんが与謝野町へ移住したのは、今から7年前のことです。
60歳という区切りの年齢を迎えたこともあり、これからの暮らし方や仕事との向き合い方を考え、移住を決意したといいます。
もちろん、与謝野町は藤原代表にとって、それまで縁のなかった土地ではありません。
奥様のご実家があるため、盆や暮れには欠かさず訪れていました。若い頃から何度も足を運び、家族や地域の人々との関係を少しずつ築いてきた場所でした。
移住とは、単に住民票を移し、生活の拠点を変えることではありません。
地域の気候や風土を知り、そこに暮らす人々の時間感覚に触れ、日々の仕事や人間関係をつくり直していくことでもあります。
藤原さんの場合、その中心にあったのがホップでした。
すべては、家の裏庭に植えたホップから始まりました
与謝野町でホップ栽培が始まるきっかけは、意外なほど小さなものでした。
ある時、藤原さんはホップの苗を譲り受けました。
そこで、奥様のご実家の裏庭に苗を植え、育ててみることにしたそうです。
ホップは、ビールに苦味や香りを与える重要な原料です。ビール好きにとって名前は身近でも、海外が主な産地であるホップを、実際に畑で育つ姿を見たことがある人は、それほど多くないかもしれません。
まして、日本の気候の中で、どの品種がどのように育ち、どの程度の手入れを必要とするのかを体験的に知る機会は限られています。
藤原さんにとっても、最初は裏庭で始めた小さな栽培でした。
しかし、そのホップを見た近隣の農家の方が興味を示したことで、事態は少しずつ動き始めます。
若い町長と、「新しいことを始めたい」町の機運

当時の与謝野町には、新しいことに挑戦しようという空気がありました。
その頃、町長を務めていたのは全国最年少の町長でした。地域の未来を考えるなかで、従来の産業だけに頼るのではなく、新しい農産物や地域の魅力を生み出したいという機運が高まっていたのです。
そこへ現れたのが、ホップでした。
日本国内のホップ産地は限られています。ホップはビール産業と強く結びついている一方、農作物としては栽培設備や管理技術が必要で、収穫後の販売先も考えなければなりません。
単に育てればよいという作物ではありません。
しかし、だからこそ、地域の新たな農業や観光、ビール文化との連携につながる可能性があります。
ビアジャーナリストとして全国の醸造所やビール関係者とつながりを持つ藤原さんは、与謝野町の人々とともに国内各地のホップ産地を訪ね、研修を重ねました。
ビールづくりの現場だけでなく、農業としてホップを成立させるために必要な知識を、地域の人々と一緒に学んでいったのです。
こうして与謝野町は、「ホップの育つ町」としての一歩を踏み出しました。
ビアジャーナリストだからできた、産地とブルワリーの橋渡し
新しいホップ産地を立ち上げるうえで、藤原さんの経験とネットワークは大きな意味を持ちました。
ホップを栽培する農家にとって、重要なのは品質のよい毬花を収穫することだけではありません。
そのホップにどのような特徴があるのかを理解し、どのようなビールに向いているのかを考え、必要としている醸造所へ届けなければなりません。
藤原さんは、ビアジャーナリストとして培ってきた知識と人脈を生かし、与謝野のホップをアピールするイベントの企画や、販売先についてアドバイスしました。
どのブルワリーが日本産ホップに関心を持っているのか。
飲み手に、日本産ホップの価値をどのように伝えるべきか。
藤原さんは、与謝野のホップをブランドとして育てながら、農業、醸造、流通、情報発信の間に立ち、それぞれをつなぐ役割を担ってきました。
「アドバイスするだけでは無責任ではないか」
当初、藤原さんは与謝野町のホップ事業に、主にアドバイザーとして関わっていました。
ホップの使い方や販売先について助言し、自身の圃場についても、日々の管理は地元の農家に依頼していました。
東京で仕事を続けつつ、遠隔で現地との情報をやりとりしながら、必要に応じて与謝野町を訪れます。
それは、ビアジャーナリストとしての知識を地域に還元する、ひとつの合理的な関わり方にも見えます。
しかし、藤原さんの中には、次第に疑問が生まれたといいます。
自分がホップを育てようと提案し、地域の人々に新しい挑戦を勧めておきながら、実際の大変な作業は地元の農家に任せています。
ホップ栽培は、収穫の時だけ圃場へ行けばよいものではありません。
春先の株の手入れから始まり、芽の選定、誘引、除草、防除、追肥、水の管理、生育状況の確認、収穫時期の見極めまで、作業は長期間に及びます。
これでは無責任ではないか。そう感じてしまう日々が続き、藤原さんは自ら圃場に立ち、日々ホップと向き合う必要があると考えました。
その思いが、与謝野町への移住と、本格的なホップ農家としての仕事につながったのです。
「手のかかる子ほど可愛い」

現在、藤原さんは、奥様のご実家の土地にある「カラカラ圃場」をホップ圃場としています。カラカラ圃場は、奥行約75m、幅約25m、広さにして約1.9反です。
そこでは、チヌーク、コロンバス、カスケード、IBUKIの4品種を育てています。
4品種には、それぞれ異なる長所があります。
香りの強さだけで優劣をつけられるものではなく、育てやすさ、収量、毬花の状態、ビールに使用した際の表現など、評価すべき点は多岐にわたります。
なかでも、特に手がかかるのが日本産品種のIBUKIだといいます。
海外生まれのホップ達と比べて、IBUKIは丁寧に管理してあげないと、大きく充実した毬花を実らせるのが難しいそうです。
その一方で、手をかけた分だけ育ち方が気になり、大粒の毬花がうまく実った時の喜びも大きくなります。
藤原さんは、IBUKIを育てながら「手のかかる子ほど可愛い」という言葉を実感するようになったと語ります。
馬に乗り、雪山へ通う「カントリーボーイ」
東京で長年暮らしてきた藤原さんですが、現在は与謝野町での生活を存分に楽しんでいます。
地元の乗馬クラブへ通って馬術を習い、冬になると兵庫県北部のスキー場へ足繁く通います。
かつてのシティボーイは今や、本人も楽しそうに語る「カントリーボーイ」です。もともとファッションで愛してきたウエスタンブーツやテンガロンハットも、堂に入ったものです。
ただし、都会での生活を捨て、農業だけに専念しているわけではありません。
ビアジャーナリストとして、日本ビアジャーナリスト協会の後進への指導のほか記事も執筆し、TVやラジオ、新聞、雑誌など、各種媒体の取材にも応じています。
イラストレーターとしての仕事も続け、ビールに関する書籍も昨年上梓しました。
BEER LOVER’S BOOK 一生ものの趣味になるビール入門 | リトルモア
ホップ農家、ビアジャーナリスト、イラストレーター。
一見すると異なる仕事のようですが、藤原さんの中では、それぞれが切り離されているわけではありません。
ホップを育てることで得た実感が文章に反映され、ビール業界で築いたつながりがホップの販売や地域の活動に生かされます。
イラストや言葉による表現は、難しいビールの知識をわかりやすく伝える助けにもなります。
これまで積み重ねてきた仕事と、移住後に始めた農業が、与謝野町でひとつにつながっているのです。
地域の人と一緒に育てるということ
新しい土地へ移住し、地域に溶け込むことは、簡単ではありません。
地域には、それまで受け継がれてきた仕事の進め方や人間関係、土地に対する考え方があります。
藤原さんは、盆や暮れに与謝野町を訪れていた頃から地域との縁を持ち、ホップの研修や栽培を通じて、地元の人々と関係を築いてきました。
現在では、地域の人々とも良好な関係を築き、ホップ農家として日々の仕事に取り組んでいます。
与謝野町のホップは、藤原さんがひとりが生み出したものではありません。
関心を持った農家がいて、新しいことを始めようとする町の機運があり、研修先のホップ産地があり、収穫したホップを使うブルワリーがいます。
そして、そのビールを飲み、面白いと感じる飲み手がいます。
ホップを中心に、人と人とのつながりが少しずつ広がってきたのです。
藤原さんと日本産ホップとのつながり・活動については、こちらのサイトもご覧ください!
日本産ホップ推進委員会
動画でも楽しくご紹介しています
藤原さんの現在の暮らしは、ビールが農業、地域、文化、表現をつなぐ存在であることを教えてくれます。
話題は尽きず、ホップ農家として困ったこと・好きな品種・ヨーロッパ産のノーブルホップは育てないの?など、まだまだ話は続いています。
インタビューの様子は、YouTube動画でも公開しています。記事とあわせて、ぜひ動画もご覧ください。
来週公開予定の後編も、ぜひ楽しみにしていてください。
※記事に掲載されている内容は取材当時の最新情報です。情報は取材先の都合で、予告なしに変更される場合がありますのでくれぐれも最新情報をご確認いただきますようお願い申し上げます。









