【連載ビール小説】タイムスリップビール~黒船来航、ビールで対抗 162~麦酒は黙して育ち、黒船は町を睨む 其ノ弐
ビールという飲み物を通じ、歴史が、そして人の心が動く。これはお酒に魅せられ、お酒の力を信じた人たちのお話。
※作中で出来上がるビールは、完成間近!物語完結時に販売する予定です

第一話はこちら
以前から町の空気に、わずかなひっかかりを感じていた。実際には何も問題は起きていない。しかし小さな泡のようなものが湧き続け、それが溜まり続けているような、そんな嫌な違和感だ。
だから朝早くに下役が門戸を叩いた時、「きたか」と思った。
「村岡さま、村岡さま……!」
佐吉が、息を切らして駆け込んでくる。
「大変です!たくさんの浦賀の民が寺になだれ込んできて、避難させろと叫んでいます!」
浦賀、そうか黒船か。村岡は天を仰ぐと、静かに目を瞑っていった。
「……わかった、すぐに向かおう」
瑞光寺の境内には、すでに二百を超える人が身を寄せていた。高齢者から子どもまで。皆、荷物を抱え、不安と怒りとをないまぜにした顔で、落ち着きなく辺りを見回している。
それを、少し距離を置いて取り囲む下の町の人々。空気は張りつめ、境内と町とのあいだに、目に見えぬ壁が立ったようだった。
「いったい、浦賀で何があったんだ……」
「戦が始まるって話だ。だから逃げてきたんだとよ」
「浦賀って、そう遠くはねえだろ? ここは本当に大丈夫なのかい」
「わたしゃ聞いた。海坊主みてえな化け物が出たって。でっかいやつが、子どもを攫って喰っちまったらしい」
噂は、口から口へ渡るたび、より恐ろしく、より過激に姿を変えていく。そして恐怖は、熱を帯び、たやすく人から人へと伝染した。
村岡が瑞光寺に足を踏み入れた時、もはや怯えていたのは浦賀の民だけではなかった。
下の町そのものが、静かな恐怖に呑まれ始めていた。
「村岡殿、ああよかった」
駆け寄ってきたのは、寺の住職だった。女も酒も好きな生臭坊主だ。真っ赤な顔をして「困った、困った」と汗を拭いている。
「今朝いきなりこの様ですよ。助けてくれ、避難させてくれとか言って、いきなり押しかけて来ましてな。ここは避難所じゃないと言っても聞きやしません。でも村岡殿が来たのであれば、安心だ。こいつらをどこかにやってください」
「それは大変だったな」
村岡は住職の方に手を置いていう。
「今からこの寺を『預かり所』とする。彼らを匿い、ここに留めよ」
「はぁ?!ちょっと、何を言ってるんですか?」
住職は思わず声を裏返した。その声に反応して、周囲の浦賀の民が一斉にこちらを見る。
村岡は境内をひと渡り見回した。
怯えた目。怒りを孕んだ目。期待にすがる目。そのすべてを受け止めた上で、低く言った。
「今日からここは下の町の『預かり所』だ。最低限の食事と水、そして安全も保障しよう。その代わり」
村岡はぴしゃりと言い放った。
「ここから出ることは許さぬ」
下の町にこれ以上、混乱を広めるわけにはいかない。境内はざわつきはじめていたが、村岡は「あとは任せた」と言い放つと、瑞光寺の敷居をまたいだ。
「名を取り、人数を数えろ。門は一つに絞れ。見張りは四方に置け。いいな」
寺を出たその足で、城へと向かう。浦賀で一体何が起こっているのか、国は黒船に対しどのように動こうとしているのか、確認しておきたかった。異国の酒でもてなす、なんて悠長なことを言ってはいたが、腹には別の思惑があるに違いない。
途中、村岡は人通りのない裏路地で弥彦を呼び出した。
「弥彦、いるんだろう?」
「ひっひっひっ……もちろん弥彦はいつだって村岡さまのおそばにいますよ……」
弥彦は暗がりから、血色の悪い顔を覗かせる。
「奴らの造っている酒が、どうなっているか調べてこい」
「仰せのままに……あぁ、我が主は本当に人使いが荒い……ひっひっひっ」
―――
その夜、村岡は研磨部屋にいた。目をつぶり、座を正す。呼吸を整えた後、無心で刀を研いだ。冷たい水の感触と、刃物が砥石の上をすべる音。それらに意識を集中しながら、自分がすべきことをまとめていく。
望むものは、下の町が平穏であること。ただそれだけだ。
お上の言葉は歯切れが悪かった。同心程度の自分には、国の情報をすべて明け渡すわけにはいかないのだろう。しかし異国からの圧や、こちらが不利になるような交渉を持ち掛けられていることはわかった。
――最悪の場合、この国は侵略される可能性もあるかもしれない。
その考えを振り払うかのように、村岡は砥石に力を込めた。
弥彦の報告では、酒造りは難航しているようだ。試行錯誤しながら、何やらやっているようだが、完成の目途はまだ見えてはいないらしい。
そもそも酒なんてものが、国の政に関わってくるのがおかしいのだ。あんなもの、世の風俗を狂わすだけの水。そんなものに、振り回されて何になるというのだ。
村岡は奥歯を噛みしめた。冷静でいようとすればするほど、腹からふつふつと怒りが湧き上がってくる。
「土色の酒は、失敗したと伝えることにする」
宙に向かって言葉を投げると、天井裏からくぐもった声が返ってきた。
「ひっひっひっ……こわや、こわや」
「お上には土色の酒を用意できないことを伝え、酒以外の方法で黒船に対抗してもらう」
「ひっひっひっ……酒を用意できなかった責任はどうするおつもりで?」
村岡は砥ぎ終わった刀を、すらりと天井にかざした。鏡のように周囲を映し出すそれは、自身の顔をもくっきりと映し出す。
「それは柳やの主にとってもらおう。喜兵寿を殺せ」
※このお話は毎週水曜日21時に更新します!
協力:ORYZAE BREWING
※記事に掲載されている内容は取材当時の最新情報です。情報は取材先の都合で、予告なしに変更される場合がありますのでくれぐれも最新情報をご確認いただきますようお願い申し上げます。









